行の使いは、今までずーっと新子の役であって、それに使う実印だけは、母が判箱には入れてないで、どっか箪笥の抽斗《ひきだし》の奥ふかくしまってあるということを。……
 通帳をそっと持ち出すことはやさしいが、母の眼をしのんで、箪笥の抽斗をかき廻して実印を探し出すことは至難であるということを。
 もっと、名案がないかしら……彼女は、暗闇《くらやみ》の中でじっと眼を開けていた。
(そうだ。新子ちゃんに頼んでみよう、前川さんは、ちょっとしたことで、あんな大金を呉れるんだもの。お給金の前借なんか簡単に出来るかもしれない)
 家の生活がどうなろうと、母姉妹《おやきょうだい》をどう詐《だま》そうと、乗りかかったこの船を降りて、なんの生き甲斐があるものか。芸術のためだもの、自分が本当に生きて行くためだもの、手段なんか、どうだって――と、子供らしい向いっ気で、そんなことを思いつくと、
(そうだ! 新子ちゃん大明神だわ。明日の朝、早く電報を打とう! そうすれば、明後日までに間に合うわ)
 すぐにも新子が送金してくれるような気がして、ぞくぞくと嬉しくなってしまった。
(それにしても、必死的な退引《のっぴき》なら
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