いに決する所あり、土越二藩|尚《なお》前説を固執するならば、いかなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野|茂勲《しげのり》その間に周旋して遂に容堂、春嶽をして譲歩せしめた。
 岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請するように、諭《さと》されることになった。
 此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。
 慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれて了《しま》うし、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであるから、彼等の憤懣察すべきものである。
 此時は、芸兵入京し、長兵も亦《また》入京していたので、慕府及びその一統が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうと云う肚《はら》が排幕派にあったのである。
 その時、二条城には幕府|麾下《きか》の遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の兵など集っていたが、朝廷の処置に憤激止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して
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