いたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒《かゆ》しであったのである。
 だから、それに対して、朝廷には二つ議論があった。その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還の許を嘉賞して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい一役を与えようと云うのである。他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出でたので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙《じゅうりん》しようと云うのである。
 所が、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中は悉《ことごと》く復活し、公武合体派は参朝を禁ぜられてしまった。
 その夜、小御所に於ける王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、山内容堂、松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論争激越を極め、一時休憩となったが、その時薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に計ったところ、隆盛泰然として「口先では、果しがない。唯一|匕首《ひしゅ》あるのみだ」と云った。岩下、之を岩倉に告げたので、具視大
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