に山崎を守備していた津の藤堂家の藩兵は、天使を受けて帰順の意を表し、ひそかに薩長の兵をわが陣中に忍ばせて置いて、六日橋本に陣している幕軍を側面より砲撃せしめた。幕軍の狼狽察すべしである。
 このあたりから、幕軍全く潰走《かいそう》して、大阪へ逃げるものあり、紀州に落ちるものあり、桑名藩士等は大和から本国へ直接逃げて行った。
 慶喜は、六日夜大阪に退き、同夜近臣数人と天保山沖で軍艦開陽艦に乗ろうとしたが、暗夜のため見つからず、先ず米国砲艦イロユイスに身を寄せ、翌七日開陽艦に移乗し、八日の夜抜錨して江戸に向った。

 鳥羽伏見戦の第一夜の印象を『莠草《しゅうそう》年録』の著者は、次ぎのように語っている。
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一昨三日、薄暮より伏見の辺に当り、失火、暫くして砲声頻々響き、家屋上に上り見候処四五ヶ所より出火|焔《ほのお》立上り、遂に伏見一円火中となると見ゆ、忽《たちま》ちに又右淀城と覚しき辺《あたり》より、砲声|轟々《ごうごう》烈しく相成り候間、然らば阪兵入侵薩土と合戦の事と推察し、長谷川氏に至り候処三沢も参り居《おり》、種々評議、私は平子と相携へて、大仏に走り、耳塚に上り
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