当の本人であろうとは、夢にも思っていなかった。が、昨夜、夜更けの庭に耳にした咳払の主が、主君に自分たちを讒《ざん》したのではあるまいかという微かな懸念は持っていた。彼は常よりも更に粛然として、主君の前に頭を下げた。
「左太夫か!」と、忠直卿はある落ち着きを、示そうと努めたらしいが、その声は妙に上ずっていた。
「左太夫! 槍といい剣といい、正真の腕前は真槍真剣でなければ分からない! タンポの付いた稽古槍の仕合は、所詮は偽りの仕合じゃ。負けても傷が付かぬとなれば、仕儀によっては、負けても差支えがないわけとなる! 忠直は偽りの仕合にはもう飽いている。大坂表において手馴れた真槍をもって立ち向うほどに、そちも真槍をもって来い! 主と思うに及ばぬ。隙があらば遠慮いたさずに突け!」
忠直卿は上ずって、言葉の末が震えた。左太夫は色を変えた。左太夫の後に控えている小野田右近も、左太夫と同じく色を変えた。
が、見物席にいる家中の者は、忠直卿の心のうちを解するに苦しんだ。殿御狂気と怖気《おじけ》をふるうものが多かった。忠直卿は、これまでは癇癖こそあったが、平常、至極闊達であり、やや粗暴のきらいこそあった
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