、何時《いつ》が来たって買えやしないわ。少し無理をしてでも、思切って買うといいんだわ。買った後で余儀なく倹約して埋合せを附ければいいんだわ。」と、云った。金遣いにかけては、貧家に育った譲吉は、可なり小心であった。とても疾病《しっぺい》などの準備として預けてある貯金を、引き出して迄、大島を買う気にはなれなかった。また彼の妻程大島に対して強い執着を、持っても居なかった。
譲吉に取って、大島の揃は出来ずに、年が暮れた。すると、新年になって、年始|旁々《かたがた》譲吉の家を訪《たず》ねた友人の杉野は、仕立下ろしと見える新しい大島の揃を着て居た。杉野と、もう一人の友人の荒井と、譲吉とは、高商の同窓で社会に出てからも、同じ位の位置に就いて居た。そしてお互の間に、意識はしなかったが、色々な点に於て競争の感情が動いて居ないでもなかった。三人の中で、一番早く眼鏡《めがね》を金縁にしたのは、譲吉であった。すると、一月ばかりして荒井が今迄の鉄縁を金に替えて居た。杉野も亦《また》何時の間にか、金の縁無しを掛けて居た。が、大島を一番早く着たのは、確に杉野に相違なかった。
「何だ! 大島を着て居るじゃないか。」
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