三四十円も出す力は持って居なかった。従って一疋六十円以上もする大島は、当然譲吉夫婦の購買力の上に在《あ》った。
「大島を買う金なんかあるもんか。」と、譲吉が妻のしつこい提議に対して、吐出すように云うと、「だから貯金をなさいよ。貴方は喰道楽だから、お金が蓄《たま》らないのよ。毎月五円宛貯金をなさいよ。そしたら、今年の秋迄には、大島が出来るわ。」と彼の妻は、よくこんな事を云って居た。譲吉も冗談に、
「じゃ、その『大島貯金』をでもするかな。」と応じた。が一種の享楽者《エピキュリアン》である彼は、着物を購《あがな》う為に、貯金迄する気は、何うしても起らなかった。が、彼は妻に依って、大島の美点と長所とを詳細に説かれてからは、段々大島に対する執着を覚えて来た。銀座通を歩いて居る時など、よく呉服屋の見本棚の前に足を止めて、其処《そこ》に飾られてある、縞柄《しまがら》のよい大島絣を、熟視して居る自分の姿に気が附いて、思わず苦笑する事も屡々《しばしば》あった。
その裡に秋が来て、冬物を着るシーズンとなっても、大島の揃は、中々出来る様子は見えなかった。妻はよく譲吉に、
「貴方のように、ケチケチして居ては
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