めて居た。譲吉は、此日三十円を受けながら、卒業してからも尚《なお》、夫人を煩わして居ることを少しは情なく思ったが、夫人に頼らずには、実際何も出来なかった。が、夫人から、金銭の贈与を受ける事だけは、もう今度でおしまいにしたいと、心の裡で思った。
 夫人の好意に依《よ》る、背広と三十円とは、譲吉が今迄感じて居た、不快な圧迫に対する、最上の対症薬であった。入社した二三週間目からは、譲吉も自分の服装に相当の自信を以て、快活に働いて居たのである。
 その内に、譲吉の生活にも、僅《わず》かながら余裕が生じて来た。殊《こと》に、学校を出た翌年、近藤夫人の尽力で結婚して以来は、更に月々相当の余裕を生じた。夫人は、譲吉の為に相当の資産家の娘を世話して呉れたからである。
 夫に連れて、譲吉の服装も段々調って来た。結婚の時に、近藤夫人は譲吉の為に、フロックコートを新調して呉れたし、その外にも譲吉は、四五着の背広やモーニングを持つようになった。和服も上等ではなかったが、時候に相当した物を、一二着|宛《ずつ》調えて行く事が出来た。殊に彼の妻は、女性に特有な、衣類に対する敏《さと》い感覚と、執着とを持って居た。

前へ 次へ
全23ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング