た。夫人の温情を、想い起す毎に、譲吉の心の空虚は、何時迄も消えなかった。
 夫人の三十五日の法事に、近藤家を訪うた譲吉は、夫人の妹に当る早川夫人から「お祝」と書いた一の紙包を渡された。
「富井さん、之は姉が、貴方のお子さんに上げる積《つもり》で買って来た、産衣《うぶぎ》だそうです。丁度、発病する日の朝、松屋で買って来たのだそうです、姉が生きて居《お》れば縫って上げるのでしょうが。」と、夫人は附け加えた。
 譲吉は、夫人が最期のその日迄、譲吉の事を考えて居たことを思うと、彼は更に云いようのない感謝に囚《とら》われた。
 彼は押し戴くようにして、近藤夫人の最後の贈物を受け取った。
 が、夫は決して最後の贈物ではなかった。
 夫から四五日して譲吉は、社を少し早目に引いて本郷の家へ帰って来た。そして、大通りを曲って自分の家のある路地へ這入《はい》ると直ぐ、其処にある水道|栓《せん》で、彼の妻が洗い物をして居た。彼が不意に、
「おい!」と声を掛けると、妻は「お帰りなさい。」とも云わない前から、
「貴方、到頭大島が出来たわ。上下《うえした》揃ってよ。」
 と、嬉しそうに大きな声を立てた。
「何だ!
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