のない主人の、男性的な涙を見た時は、譲吉は愈々自分のセンチメンタリティを卑しんだ。夫でも、彼の嗚咽は尚無用に続いて居た。
「離れに置いてあるから、直ぐ彼方《あっち》へ行って呉れ。」と、主人は落着いた声で言った。
 彼は直ぐ奥の離れへ行った。紫色の御召を着た令嬢の雪子さんと、瑠璃子さんが、泣顔を上げて譲吉の顔をチラリと見た。
 何時もは、此の二人の令嬢を、世の中で最も幸福な女の子だと思って居た譲吉は、今日は全く反対の考を懐《いだ》かねばならなかった。夫人の遺骸《いがい》は、十畳間の中央に、裾模様《すそもよう》の黒縮緬《くろちりめん》、紋附を逆さまに掛けられて、静に横たわって居た。譲吉は、徐《おもむ》ろに遺骸の傍に進んだ。そして両手を突いて頭を下げた。口の裡で夫人から受けた高恩を謝した。涙がまた新しく頬を伝った。夫人は急激な尿毒症に襲われ、僅か五時間の病《わずら》いで殪《たお》れたのであった。
 夫からの三日間、譲吉はお通夜《つや》の席に連った。彼はお通夜などと云う仏教の形式に、反感を懐いて居たが、然し自分の悲痛や夫人に対する愛慕を、こうした形式で現わす外、何うとも仕様がなかった。
 本当
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