かった。
 六本木の停留場で降り、龍土町《りゅうどちょう》の近藤氏の家の方へ歩いて居る時には、譲吉の涙は忘れたように、乾《かわ》いて居た。
 譲吉は、一家が涙で以って、濡《ぬ》れ切って居る所へ、自分一人涙無しに行くのは何となく気が咎《とが》めた。夫かと云って一旦出なくなった涙は、意識しては何うしても出なかった。
 が、近藤家の勝手を知った譲吉が、内玄関を上って、夫人の居間であった八畳へ行くと、其処には思い掛なく夫人の代りに、主人の近藤氏が羽織袴で坐って居た。譲吉は悔みの挨拶をしようとしたが急に発作的に起った嗚咽《おえつ》の為に彼は、暫《しばら》くは何うしても、言葉が出なかった。譲吉は、自分の過度のセンチメンタリティが、一種誇張の外観を、呈しはせぬかと思うと、可なり不快であった。彼は出来る丈け早く自分の感情を抑制しようと思ったが、不思議に彼の嗚咽は続いた。而《しか》も、その嗚咽は不思議に、深い感情を伴って居ない軽い発作で、而も余りに大げさな外観を持って居た。彼は自分で自分を卑しんだ。見ると、近藤氏は右の手を、額に加えて、新しく滲《に》じみ出ようとする涙を押えて居た。平生殆ど喜怒を現した事
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