る。そうすると家康は「止むを得ざる仕合せ」と云って兵を出している。
 家康の肚では、濠を潰すための媾和であったから、濠が無くなれば、開戦はいつだって、いいのである。濠を潰させる好餌として、有力な人の口から、増封を匂わせたに違いないのである。でなければ、大阪方が何の代償もなしに、大事な濠を潰すわけはないのである。
「大阪の城堀埋り、本丸|許《ばか》りにて浅間と成り、見苦敷《みぐるしき》体にて御座候との沙汰にて御座候」
 と、正月二十日附で、金地院《こんちいん》崇伝は細川忠興に消息している。つまり、現在ある大阪城と同じになったわけである。
 家康は、冬の陣以後すぐ戦争準備にかかり、冬の陣の経験から、大砲を作らしている。『国友鍛冶記録』に「権現様|為[#二]御上意[#一]《ごじょういにより》、元和元年卯之正月、急駿府被為召《きゅうにすんぷにめされられ》、同十一日に百五十目玉之|御筒《おんつつ》十挺、百二十匁玉之御筒十挺、百目玉の御筒三挺、昼夜急ぎ|張立指上可[#レ]申之旨《はりたてさしあげもうすべきのむね》、上意……夏の御陣へ早速指上、御用に相立申候」とある。
 また家康は駿府には帰らず、途
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