て、東は大和口の東軍と河内口の東軍とが河内の砂《すな》に相会する所を迎え撃ち、南は熊野の土冦と相結んで、和歌山の浅野を挾撃し、又別に古田織部正の家老木村|宗喜《むねよし》に嘱《しょく》し、家康秀忠の出馬した後京都に火を放とうと云うにあった。
 先ず大野治長の兵二千、四月二十六日藤堂高虎の砂に来《きた》るを待ち要撃せんとしたが、高虎到らざるため、暗《やみ》峠を越えて郡山に火を放ち、筒井定昌を走らせ、法隆寺村、竜田《たつた》村に火を放ち、国府越より河内に引き去った。これが夏の陣の第一出動である。
 四月二十八日大野治房同じく道犬等、浅野|長晟《ながあきら》の兵を迎え撃たんとして、住吉、堺を焼き、兵火を利用して南下し、先鋒の塙《ばん》団右衛門|直之《なおゆき》は、樫井《かしい》に於て、浅野の先鋒亀田大隅と戦って敗死した。
 団右衛門も名代《なだい》の豪傑であるが、大隅も幽霊から力を授ったと云う大豪の士で、その後江戸城普請の時、大隅受持の石垣がいく度も崩れるので、秀忠から文句を云われたとき「自分が鵄《とび》の尾の槍を以て陣したときは、一度も崩れたことがないが、石垣は無心のもの故是非に及ばない」と豪語した男である。
 塙の首級は、暑気の折から損ずるだろうと云うので、家康に抜露しなかった。所がその夜、井伊|掃部頭《かもんのかみ》の陣中にいた女が、痞《つかえ》おこり譫言《うわごと》を口走る。「我も一手の大将なり。然るにわが首の何とて、実検に合わざるぞ。かくては、此度の勝利思いも依らず。我|崇《たたり》をなし、禍いを成さん」と。家康之を聞き「団右衛門は健気《けなげ》なるものなり、首は見苦しくとも実検せん」とて、法通り実検した。すると、女の痞は忽ち怠った。家康笑って、団右衛門ゆかりの者なるべしとて、調べると果して、団右衛門が不びんをかけた古千屋と云うものであった。
 これに依って、戦国女性の気魄《きはく》も分るが陣中に女を伴っていたことも分る。

       片山道明寺附近の戦

 道明寺は河内志紀郡にあって、大阪城の東南|凡《およ》そ五里、奈良より堺に通ずる街道と、紀州より山城に通ずる街道との交叉の要地である。
 四月|晦日《みそか》、大野治房等は樫井の敗戦から還り、大阪で軍議をした。後藤基次先ず国分の狭隘を扼し大和路より来る東軍を要撃することを提議した。前隊は基次、薄田兼相《す
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