すきだかねすけ》、兵数凡そ六千四百。後隊は真田幸村、毛利勝永兵一万二千。五月|朔日《ついたち》、前隊は出でて平野《ひらの》に舎営した。
五日夜、幸村と勝永天王寺より平野に来り基次に云う、「今夜鶏明道明寺に会し、黎明《れいめい》以前に国分の山を越え、前後隊を合し、東軍を嶮隘に邀《むか》え、三人討死するか両将軍の首をとるかを決せん」と。軒昂として訣別の杯をかわした。
幸村は、大名の次男だし、基次は士《さむらい》大将に過ぎない。それでいて、意気東軍を呑んでいるのであるから、その気魄その勇気、今でも人気があるのは、当然である。
六日黎明、基次、東軍大和口の先鋒水野|勝成《かつなり》、本田忠政、伊達政宗等と片山道明寺附近で遭遇して激戦の末戦死した。之より前家康、本田正信の親族、相国寺僧|揚西堂《ようせいどう》をつかわし基次に帰降を勧めた事がある。その時、基次「大阪方の運開け関東危しとならば、また考えようがある。只今のように大阪方非運の場合、左様の事は思いも及ばない。さるにても、自分は、唐《から》まで聞えた秀吉公の御子息から、此上なく頼まれている上に、今また将軍家から、そんな話があるなど、日本一の武士と云うのは自分の事だろう」と豪語した。しかしその事件から基次、関東に内通せりとの訛伝《かでん》ありし為既に死は決していたらしい。その心情の颯爽《さっそう》たる実に日本一の武士と云ってもよい。彼の力戦振りは、「御手がら、げんぺい以来|有間敷《あるまじく》と申すとりざたにて御座候。日本のおぼへためしなきやうに存候」と『芥田文書』にある。彼の奮戦は日本中の評判になった事が分る。
基次自ら先頭に立ち兵を収めんとしたが、銃丸に胸板を貫かれ、従兵|金方《かねかた》某之を肩にせんとするも体躯肥肝、基次また去るを欲せず命じて頸《くび》を刎《は》ねしめ之を田に埋《うず》めた。同日、薄田兼相亦戦死した。これは、岩見重太郎の後身と云われているが、どうか分らん。濃霧により約束の期に遅れた真田勢は遂に基次兼相の死を救うことが出来ず、伊達隊と会戦した。幸村槍を駢《なら》べて迎え、六文銭の旌旗《しょうき》、甲冑《かっちゅう》、その他赤色を用いし甲州以来の真田の赤隊、山の如く敢て退かず。午後二時頃城内より退去令の伝騎来って後退した。幸村自ら殿軍となり名退却をなす。「しづ/\としつはらひ仕《つかまつり》関東
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