勢百万も候へ、男は一人もなく候よし雑言|申《もうし》、大阪へ引取申候」と『北川覚書』に出ている。
 幸村は総大将だけに、基次ほど死を焦《あせ》らないところ名将の器である。「男は一人もなし」と雑言しても、関東勢返す言葉はなかったろう。

       八尾若江の戦

 五月六日、片山道明寺附近の会戦と同日、八尾《やお》若江方面にも激戦があった。
 八尾若江両村は道明寺の北二里余。
 高野街道、奈良街道の要地にして、地勢卑湿、水田沼地多く畷道《なわてみち》四通する所だ。
 大阪方の主将は木村重成、長曾我部|盛親《もりちか》の二人。是《これ》に向うは河内国の先鋒藤堂高虎兵五千、井伊直孝三千二百。
 盛親麾下三百を長瀬川堤上に伏せ、敵の十間に迫るや槍撃《そうげき》す。藤堂勢中藤堂|高刑《たかのり》、藤堂氏勝等の重臣戦死した。大阪方の奮戦知るべしである。
 木村重成も同日午前五時若江に達し、藤堂隊を迎えその右翼を撃破した。然るに井伊直孝優勢なる銃隊を以て、敵を玉串川の左岸に圧迫し、木村の軍は裏崩れをし重成戦死す。
「安藤謹んで曰く、今日|蘆原《あしはら》を下人二三人|召連通《めしつれとおり》候処、蘆原より敵か味方かと問《とい》、乗掛見れば、士《さむらい》一人床机に掛り、下人四五人|並《ならび》居たり。某《それがし》答て、我は掃部頭《かもんのかみ》士某、生年十七歳敵ならば尋常に勝負せよと申。彼《かの》士存ずる旨あれば名は名乗らじ、我は秀頼の為に命を進ずる間、首取って高名にせよと、首を延べて相待ける。
 某、重《かさね》て、士の道に|無[#二]勝負[#一]《しょうぶなく》して首|取無[#レ]法《とるほうなく》槍を合せ運を天に任せん、と申ければ、げに誤りたりと槍|押取《おっとり》、床机の上に居直《いなおり》もせず、二三槍を合《あわせ》、槍を捨《すて》、士の道は是迄也。左らば討て迚《とて》待ける故|無[#二]是非[#一]《ぜひなく》首をとる。兼て申付たるか、下人は槍を合するや否《いなや》、方々へ逃げ失せぬ」と、『古老物語』にあるが、戦い敗れた後の重成の従容《しょうよう》たる戦死の様が窺われる。
 重成の首は月代《さかやき》が延びていたが異香薫り、家康これ雑兵の首にまぎれぬ為の嗜《たしなみ》、惜む可きの士なりと浩歎した。

       岡山天王寺口の戦

 五月七日、幸村は最後の戦場
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