を天王寺附近と定め、城中諸将全部出でて東軍を誘致して決戦し、一隊をして正面の戦|酣《たけなわ》なる時迂回して背後を衝かしめんとした。
 幸村茶臼山に陣し、毛利勝永は天王寺南門に備え、大野治長の先鋒銃隊東に在り、左方岡山口は大野治房を配し、迂回すべき遊軍は明石|全登《なりとよ》が精兵三百を率いた。又秀頼自ら桜門に出馬した。
 東軍は昨日奮戦した藤堂井伊を労《いた》わり退かしめ、岡山口の先陣を前田利常、天王寺口のそれを本多|忠朝《ただとも》に定む。然るに悍勇《かんゆう》なる松平忠直は、自ら先登を企てた。前日、家康に叱られて、カッとなっているのである。「公(忠直)は湯漬飯を命じ近侍|真子《まこ》平馬に膳を持たせ、立ながら数椀喫せられ、食終て公舒々と諸軍に向い、最早皆々満腹すれば討死しても餓鬼道へは堕《お》ちず、死出の山を越して直ちに閻魔の庁に入るべし」と。この辺のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]は僕の『忠直卿行状記』の発端である。
 東西両軍必死に戦い、東軍では先鋒本多忠朝及び小笠原秀政|忠脩《ただなか》親子戦死す。幸村は越前兵に突入した。此の日諸隊躍進|何《いず》れも先駆の功名にはやり後方の配備甚だ手薄だった。「御所様之御陣へ真田|左衛門佐《さえもんのすけ》かゝり候て、御陣衆を追ちらし討捕り申候。御陣衆三里ほどづゝにげ候衆も皆々いきのこられ候。三度目に真田もうち死にて候。真田日本一の兵いにしへよりの物語にも無之由《これなきよし》惣別これのみ申事に候」と『薩藩奮記』にあるが、講談で家康が、真田に追かけられる話も、全然嘘ではない。流石《さすが》直参の三河武士も三里逃げた。真田一党の壮烈な最後は「日本にはためし少なき勇士なり。ふしぎなる弓取なり。真田|備居《そなえお》る侍を一人も残さず討死させる也。合戦終りて後に、真田下知を守りたる者、天下に是なし。一所に討死させるなり」と云われている。
 此の一戦は「此方《こちら》よりひたもの無理に戦を掛候処、|及[#二]一戦[#一]《いっせんにおよび》戦数刻|相支《あいささえ》候て、半分は味方、半分は大阪方勝にて候ひつれ共、此方の御人数、|数多有[#レ]之《あまたこれある》に付き御勝に成る」と『細川家記』にあるから、大阪方も必死の戦いをしたことが分る。
「大阪衆手柄之儀中々|不[#レ]及[#レ]申《もうすにおよばず》候。今度之御勝に罷成《
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