る。そうすると家康は「止むを得ざる仕合せ」と云って兵を出している。
家康の肚では、濠を潰すための媾和であったから、濠が無くなれば、開戦はいつだって、いいのである。濠を潰させる好餌として、有力な人の口から、増封を匂わせたに違いないのである。でなければ、大阪方が何の代償もなしに、大事な濠を潰すわけはないのである。
「大阪の城堀埋り、本丸|許《ばか》りにて浅間と成り、見苦敷《みぐるしき》体にて御座候との沙汰にて御座候」
と、正月二十日附で、金地院《こんちいん》崇伝は細川忠興に消息している。つまり、現在ある大阪城と同じになったわけである。
家康は、冬の陣以後すぐ戦争準備にかかり、冬の陣の経験から、大砲を作らしている。『国友鍛冶記録』に「権現様|為[#二]御上意[#一]《ごじょういにより》、元和元年卯之正月、急駿府被為召《きゅうにすんぷにめされられ》、同十一日に百五十目玉之|御筒《おんつつ》十挺、百二十匁玉之御筒十挺、百目玉の御筒三挺、昼夜急ぎ|張立指上可[#レ]申之旨《はりたてさしあげもうすべきのむね》、上意……夏の御陣へ早速指上、御用に相立申候」とある。
また家康は駿府には帰らず、途中でウロウロして、二月七日に遠州中泉で次ぎのような非常時会議をやっている。
「二月七日辰刻、将軍家|渡[#二]御中泉[#一]《なかいずみにとぎよ》|先献[#二]御膳[#一]《まずおぜんをけんじ》|暫有[#下]於[#二]奥之間[#一]大御所御対面[#上]《しばらくおくのまにおいておおごしょもごたいめんあり》本多佐渡守|同上野介召[#二]御前[#一]《おなじくこうずけのすけをごぜんにめされ》|御密談移[#レ]刻《ごみつだんにときをうつす》」
四月初旬には、多くの諸侯に、出征準備の内命を発している。
四月四日には、家康、子義直の婚儀に列する為と云う口実で駿府を出発、十八日、二条城に入っている。
塙直之戦死
大阪方でも、戦備に忙しく、新規浪人を募集し、秀頼自ら巡視した。「茜《あかね》の吹貫《ふきぬき》二十本、金の切先の旗十本、千本|鑓《やり》、瓢箪の御馬印、太閤様御旗本の行列の如く……」と、『大阪御陣覚書』に出ている。
だが、大阪方としては、城濠を失っているのであるから、城を捨てて東軍を迎え撃ち、あわよくば西将軍の首級を狙う外、勝算はないわけである。
西軍の作戦とし
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