の事があって、大いに気勢を挙げ、大阪方可なり強気であったが、家康天守閣、千畳敷などを砲撃して、秀頼母子を威嚇《いかく》し、結局の媾和条件は、次ぎの通りであった。
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一、城中新古将士の罪を問わざるべし。
二、本丸を除き二、三の丸の濠を埋《うず》むべし。
三、淀君質となるを得ざるを以て、有楽|治長《はるなが》質子《しちご》を出すべし。
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 この媾和条約違反から、夏の陣が起るのであるが、惣堀だけを潰す約束であったのに、二の丸三の丸の堀まで潰したので、大阪方が憤慨したと云う説、いや初めから二の丸三の丸を潰すことを大阪方も認めていたと云う説もあって、決しがたい。濠の問題以外に、家康は大阪方の浪人を扶持するに対して「|悉被[#二]相払[#一]《ことごとくあいはらわれ》」と要求したばかりか、古参の衆まで逐《お》わしめんとしたと云う。
 然し、夏の陣の開戦の直接原因は、秀頼の転封問題である。冬の陣の媾和の時に、転封問題はあったのであるが、それは増封の伴った転封であったのであろう。大阪方で転封と云うことがなければ、大事の城の濠を潰させるわけはない。内約的に栄転的転封を約したのであろう。
 三月中旬に、大阪より青木一重、淀君の妹の常高院などが駿府に下り、家康に増封を請願しているのでも分る。大阪方では、集った諸浪人の扶持のために、ぜひとも増封が欲しかったのである。
 つまり、大阪陣と云うのは、ある点からは、関ヶ原で失業した諸浪人の就職戦争であるから、媾和になった場合には、浪人の扶持問題が起るのは、当然なわけである。
 此の増封を拒絶されて、四月五日に秀頼は、開戦を決している。
 四月二十四日に、家康が大阪に遣した最後通牒は、次ぎの通りだ。
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一、秀頼の封邑《ほうゆう》中、去年の兵乱に摂津の百姓離散せるは疑うべからざるも、河内は然らず。(之は変だが、つまり秀頼よりの増封の要求の理由を反駁《はんばく》したのである)
二、媾和以後浪士は、速かに解放すべきに、却て多数の浪士を招集せしは何故ぞや。
三、城中戦備を整うるを以て、人心の動揺甚し、暫く大和郡山に移封あるべし。
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 増封乃至は増封的転封を拒絶し、転封だけさせようと云うのであるから、大阪方が怒ってしまったのであ
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