り巻く連中も、天下の権勢が徳川に帰した後も、大阪城に拠れば、何《ど》うにかなるだろうと思ったろうし、家康も本多正信も秀頼は恐くはないが、大阪城にいる以上、どうにか始末をつけねばと思ったろうし、結局大阪城は秀頼亡滅の因を成したと云ってよかろう。
 家康にしたところが、絶対に秀頼を亡そうと思っていたかどうかは疑問である。絶対に亡そうと思っていたら関ヶ原以後、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。それまで、豊臣恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神様じゃないし、自分が七十三迄生き延びる事に確信はなかっただろうと思う。
 もし、豊家に人が在って、自発的に和州郡山へでも移り、ひたすら豊家の社稷《しゃしょく》を保つことに腐心したら、今でも豊臣伯爵など云うものが残っていて、少し話が分った人だったら、大阪市の市長位には担ぎ上げられたかも知れない。
 しかし、秀頼の周囲は、仲々強気で、秀頼が成長したら、政権が秀頼に帰って来るように夢想していたのであるから、結局亡びる外仕方がなかったのだろう。
 大阪冬の陣の原因である鐘銘問題など、甚だしく無理難題である。家康が、余命|幾何《いくばく》もなきを知り、自分の生前に処置しようと考え始めたことがハッキリ分る。
 秀吉が、生前大阪城を攻め亡すには、どうしたらよいかと戯れに侍臣に語ったところが、誰も答うる者がなかったので、自分で「一旦扱いをして、濠《ほり》を潰《つぶ》せば落ちる」と云ったと云う。多分後人の作為説であろうが、家康の大阪城に対する対策も同じであって、大阪冬の陣に、和議を提議したのは徳川の方からである。一度、戦争をして、和議の条件として濠を潰させ、その後でいよいよ滅してやろうと云うプラン通りに、大阪方が乗って、行動するのであるから、一たまりもなく亡びるのは当然である。せめて、冬の陣のままで四月《よつき》か半年も頑張ったならば、当時は戦国の余燼《よじん》がやっと収まったばかりであるから、関ヶ原の浪人も多く、天下にどんな異変が生じたか分らないと思う。
 大阪冬の陣の媾和には、初め家康から、一、浪人赦免、二、秀頼|転封《てんぽう》の二条件を提議し、大阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答した。媾和進行中に塙《ばん》団右衛門が蜂須賀隊を夜襲するなど
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