すげ》の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふり、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ヶ所の重傷をうけて部下と共に討死した。
 この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の甲冑《かっちゅう》武者が八幡原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田菱の金具|竜頭《りゅうず》の兜を冠り、紫|裾濃《すそご》の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したことは有名である。その際|初鹿野《はじかの》源五郎忠次は主君義信を掩護《えんご》して馬前に討死した。越軍の竜字の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る。
 甲軍の旗色次第に悪く、信玄牀几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいたり、牀几近くには二三近習のものが止ったにすぎない。しかし動ぜざること山の如き信玄は牀几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた。
 信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍《みょうちん》信家の名作諏訪|法性《ほっしょう》の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳。
 この日、
前へ 次へ
全28ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング