千を残したから、精兵八千で、人数は同じであるが、不意に出られた武田勢は、最初から精神的な一撃を受けたのである。
さすがに百戦練磨の信玄は少しもおどろかず、浦野民部に敵情をさぐらせたところ、「謙信味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公|聞召《きこしめ》し、「さすがの浦野とも覚えぬことを申すものかな、それは車懸《くるまがかり》とて幾廻り目に旗本と敵の旗本と打合って一戦する時の軍法なり」とあって備を立直したと云う。
(だが車懸とは如何するのか一寸《ちょっと》疑問で、大軍を立ちきり立ちきり廻すというのは、実際困難である。だが、軍記作者のヨタでもないらしく、実際川中島に於ける謙信の陣立は水車の如く、旗本を軸としてまわって陣し、全軍が敵軍に当った。しかし精しいことは分らない)
越軍は先鋒柿崎和泉守が大蕪菁《おおかぶら》の旗を先頭に一隊千五百人が猛進をはじめ、午前七時半頃水沢の西端に陣取っていた武田左馬之介|典厩《てんきゅう》信繁の隊(七百)に向って突撃してきた。典厩隊は大に狼狽したが、槍をとって鬨をあげて応戦した甲軍は、まだ陣の立て直しもすまぬ時であった
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