中島は前夜細雨があったためか、一寸先もわからぬ濃霧である。
『川中島五度合戦記』に「越後陣所ヨリ草刈ドモ二三十人未明ヨリ出デカケマハリ云々」とあるは、天文二十三年のこととして出ているが、それは間違いであるから、おそらくこの時のことであろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中島を右に左にはい廻ったのであろう。謙信は斥候を放って敵の旗本軍の行動をさぐらせ、甲軍が広瀬を渡ったことを知り、奇襲して敵を粉砕し、旗本を押し包んで、信玄を討ち取ろうと、水沢の方向にむかって静かに前進をおこした。戦わずして謙信は十二分の勝利である。
妻女山に向った甲軍は、地理に明かな、高坂弾正が先導で、月の西山に没する頃には海津を発し倉科の山越しに妻女山へむかった。しかしこれは山間の小径《しょうけい》で秋草が道をおおっているので行軍に難渋した。しかも、一万二千の大軍であるから夜明け前に妻女山に到着する筈であったのが、はるかに遅れた。
一方信玄の旗本は、剛勇の山県昌景が先鋒となり、十日|寅《とら》の刻(午前四時)に海津城を出で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁その左には
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