》の緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。
さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。
幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。声の下より、皆起って突かかり、瞬《またた》く間に、政宗の先手《さきて》を七八町ほど退かしめた。政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。
これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。
新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。
幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。
そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀《はかりごと》空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」と。
この六日の朝は、霧深くして、夜の明
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