《あけ》も分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。若《も》し、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。
勝永も涙を面に泛《うか》べ「さり乍《なが》ら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、古《いにしえ》の名将にもまさりたり」と称揚した。
幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取《とっ》たる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。
勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」と称《たた》えたという。
こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際《みずぎわ》立った奮戦に終始した。
[#7字下げ]真田の棄旗[#「真田の棄旗」は中見出し]
五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田|修理亮《しゅりのすけ》光重は能《よ》く河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
その後から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。
が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔《ほとり》に佇《たたず》むもの多かった。大将修理亮は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込ん
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