且元、後にこれを家康に訴え、その侠客を制裁してくれと頼んだが、家康は笑って応じなかった。
 当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分るわけである。『桐一葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、誰も演《や》るものがないからいいようなものの。

[#7字下げ]東西和睦[#「東西和睦」は中見出し]

 和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なることを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが、例によって、大野、渡辺等の容るる所とならなかったわけである。
 幸村は、偶々《たまたま》越前少将忠直卿の臣原|隼人貞胤《はやとさだたね》と、互に武田家にありし時代の旧友であったので、一日、彼を招じて、もてなした。
 酒盃|数献《すうこん》の後、幸村小鼓を取出し、自らこれを打って、一子大助に曲舞《くせまい》数番舞わせて興を尽した。
 この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。終《つい》には弓箭《きゅうせん》に罷成《まかりな》るべくと存ずれば、幸村父子は一両年の内には討死とこそ思い
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