を逍遥《さまよ》つてゐたのだつた。彼の奇禍は、彼の望み通《どほり》に、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残つてゐる良心を、恥《はづか》しめ得るだらうか。『返して呉れ』と云つたのは『叩き返して呉れ』と云ふ意味だつた。信一郎は果して叩き返しただらうか。
彼女が、瑠璃子夫人であるか何うかは、手記を読んだ後も、判然とは判らなかつた。が、たゞ生易しい平和の裡に、返すべき時計でないことは明《あきらか》だつた。その時計の中に含まれてゐる青年の恨みを、相手の女性に、十分思ひ知らさなければならない時計だつたのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久に慰められてゐないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。
が、『彼女』とは一体誰であらう。
そのかみの事
一
「あら! お危うございますわ。」と赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追ひ纏はれながら、荘田勝平は庭の丁度|中央《まんなか》にある丘の上へ、登つて行つた。飲み過ごした三鞭酒《シャンペ
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