はぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の誇《プライド》を叩き潰してやりたかつた。が、大尉に何の罪があらう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思つた。
 が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤《いきどほり》と恨《うらみ》との為に、わな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈《だけ》の勇気と力とを。
 が、二つとも自分には欠けてゐた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追ひ、自分を悩ませる。
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 手記は茲で中断してゐる。が、半|頁《ページ》ばかり飛んでから、前よりももつ
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