た蝶の身悶えに、過ぎなかつたのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見てゐたのだ。
 今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々として之《こ》れを手首に入れてゐた。彼女の愛の把握が其処にあるやうに思つてゐた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるやうに思つてゐた。
 が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。
 昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時
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