ら帰つたまゝに、放り出してあつたトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責を感じた。
 が、彼が時計の謎を知らうと云ふ慾望は、もつと強かつた。美しい瑠璃子夫人の謎を解かうと云ふ慾望は、もつと強かつた。
 彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くやうな興奮と恐怖とで、オヅ/\表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だつた。その次ぎの五六枚も、白紙だつた。彼は、裏切られたやうなイラ/\しさで、全体を手早くめくつて見た。が、何の頁《ページ》も、真白な汚れない頁《ページ》だつた。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくつて行つたとき、やつと其処に、インキの匂のまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだつた。
 信一郎は胸を躍らしながら、貪るやうにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体が荒《すさ》んでゐる上に、字の書き違《ちがひ》などが、彼処《かしこ》にも此処にもあつた。

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 ――彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝつ
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