夫人の手に依つて、時計が本当の持主に帰るかどうかさへが、可なり不安に思はれ出した。
その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ/\と甦つて来た。『時計を返して呉れ』と云ふ言葉の、語調までが、ハツキリと甦つて来た。その叫びは、恋人に恋の遺品《かたみ》を返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だつた。その叫びの裡には、もつと鋭い骨を刺すやうな何物かゞ、混じつてゐたやうに思はれた。『返して呉れ』と云ふ言葉の中に『突つ返して呉れ』と云ふやうな凄い語気を含んでゐたことを思ひ出した。たとひ、死際であらうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈だと思はれた。
さう考へて来ると、瑠璃子夫人の云つた子爵令嬢と青年との恋愛関係は、烟のやうに頼りない事のやうにも思はれた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのではあるまいか。
が、さう疑つて見たものゝ、それを確める証拠は何もなかつた。それを確めるために、もう一度夫人に会つて見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度体よく追
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