、その節またお目にかゝります。」
 さう云ひながら、夫人は玄関の扉《ドア》の外へ出て暫らくは信一郎の歩み去るのを見送つてゐるやうであつた。
 電車に乗つてから、暫らくの間信一郎は夫人に対する酔《ゑひ》から、醒めなかつた。それは確かに酔心地《ゑひごゝち》とでも云ふべきものだつた。夫人と会つて話してゐる間、信一郎はそのキビ/\した表情や、優しいけれども、のしかゝつて来るやうな言葉に、云ひ知れぬ魅力をさへ感じてゐた。男を男とも思はないやうな夫人に、もつとグン/\引きずられたいやうな、不思議な慾望をさへ感じてゐたのである。
 が、さうした酔が、だん/\醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処かに、嘘偽りがあるやうに思はれてならなかつた。最初冷静だつた夫人が、遺言と云ふ言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知つてゐると云ひ出したりしたことが、今更のやうに、疑念の的になつた。疑つてかゝると、信一郎は大事な青年の遺品《かたみ》を、夫人から体よく捲き上げられたやうにさへ思はれた。従つて、
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