に立ち上つた。
信一郎が、勧められるのを振切つて、将に玄関を出ようとしたときだつた。夫人は、何かを思ひ付いたやうに云つた。
「あ、一寸お待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。
五
信一郎が、暇を告げたときには何とも引き止めなかつた夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思ひながら、振り顧つた。
「つまらないものでございますけれども、之《これ》をお持ち下さいまし。」
さう云ひながら、夫人は何時の間に、手にしてゐたのだらう、プログラムらしいものを、信一郎に呉れた。一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであつた。
「御親切に対する御礼は、妾《わたくし》から、致さうと存じてをりますけれど、これはホンのお知己《ちかづき》になつたお印に差し上げますのよ。」
さう云ひながら、夫人は信一郎に、最後の魅するやうな微笑を与へた。
「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘ポケットに入れた。
「御迷惑でございませうが、是非お出で下さいませ、それでは
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