四

 時計を持つてゐる手が、微かに顫へるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したやうだつた。ほんのもう、痕跡しか残つてゐない血が、夫人の心を可なり、脅かしたやうにも思はれた。
 一分ばかり、無言に時計をいぢくり廻してゐた夫人は、何かを深く決心したやうに、そのひそめた[#「ひそめた」に傍点]眉を開いて、急に快活な様子を取つた。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが交つてゐたけれども。
「あゝ判りました。やつと思ひ付きました。」夫人は突然云ひ出した。
「私《わたくし》此時計に心覚えがございますの。持主の方も存じてをりますの。お名前は、一寸申上げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらつしやいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、かうした物を、お取り換《かは》しになつてゐようとは、夢にも思ひませんでしたわ。屹度《きつと》、誰方にも秘密にしていらしつたのでございませう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかつたのでございませう。道理で見ず知らずの貴方《あなた》にお頼みになつたのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換しになつたものを、遺品《かたみ》とし
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