を返して呉れと云はれるのです。是非返して呉れと云はれるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答へた。
「誰方《どなた》にでございませうか。誰方に返して呉れと云はれたのでございませうか。」
 夫人の言葉は、更に急《せ》き込んでゐた。一度赤くなつた顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放つて、信一郎の答へいかにと、見詰めてゐるのだつた。
 信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるやうにして云つた。
「それが誰にとも分らないのです。」
 夫人の顔に現れてゐた緊張が、又サツと緩んだ。暫らく杜絶えてゐた微笑が、ほのかながら、その口辺に現はれた。
「ぢや、誰方に返して呉れとも仰しやらなかつたのですの。」夫人は、ホツと安堵したやうに、何時の間にか、以前の落着を、取り返してゐた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫つてゐたのでせう、私の問には、何とも答へなかつたのです。たゞ臨終に貴女《あなた》のお名前を囈語《うはごと》のやうに二度繰り返したのです。それで、万一|貴女《あなた》に、お心当りがないかと思つて参上したのですが。」
 信一郎は、肝腎な来意を云つてしまつ
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