「遺言を貴君《あなた》さまが、ほゝう。」
 さう云つた夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。

        三

 今迄は、秋の湖のやうに澄み切つてゐた夫人の容子が、青年の遺言と云ふ言葉を聴くと、急に僅《わづか》ではあるが、擾れ始めた。信一郎は手答へがあつたのを欣んだ。此の様子では、自分の想像も、必ずしも的が外れてゐるとは限らないと、心強く思つた。
「衝突の模様は、新聞にもある通《とほり》ですが、それでも負傷から臨終までは、先づ三十分も間がありましたでせう。その間、運転手は医者を呼びに行つてゐましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合はしたと云ふわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたらう、青木君は、ふと右の手首に入れてゐた腕時計のことを言ひ出したのです。」
 信一郎が、茲まで話したとき、夫人の面《おもて》は、急に緊張した。さうした緊張を、現すまいとしてゐる夫人の努力が、アリ/\と分つた。
「その時計を何《ど》うしようと、云はれたのでございますか。その時計を!」
 夫人の言葉は、可なり急き込んでゐた。其の美しい白い顔が、サツと赤くなつた。
「その時計
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