急に悄気てしまつた。丁度その時であつた。つか/\と彼を追ひかけて来た大男があつた。
「もし/\如何です。自動車にお召しになつては。」と、彼に呼びかけた。
見ると、その男は富士屋自動車と云ふ帽子を被《かぶ》つてゐた。信一郎は、急に援け舟にでも逢つたやうに救はれたやうな気持で、立ち止まつた。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考へたので、さうした感情を、顔へは少しも出さなかつた。
「さうだねえ。乗つてもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕を以て、答へた。
「何処までいらつしやいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までぢや、十五円で参りませう。本当なれば、もう少し頂くので厶《ござ》いますけれども、此方《こつち》からお勧めするのですから。」
十五円と云ふ金額を聞くと、信一郎は自動車に乗らうと云ふ心持を、スツカリ無くしてしまつた。と云つて、彼は貧しくはなかつた。一昨年法科を出て、三菱へ入つてから、今まで相当な給料を貰つてゐる。その上、郷国《くに》にある財産からの収入を合はすれば、月額五百円近い収入を持つてゐる。が十五円と云ふ金額を、湯河原へ行く時間を、わづか二三時間縮める為に払ふことは余りに贅沢過
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