停車場は少しも混雑しなかつた。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫らく斑《まだら》にたゆたつた丈《だけ》であつた。
 信一郎は、身支度をしてゐた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢《けはひ》を見せてゐた、が、その電車も、此の前の日曜の日の混雑とは丸切り違つて、まだ腰をかける余地さへ残つてゐた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎に止まる、のろ/\した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換へると行く手にはもつと難物が控へてゐる。それは、右は山左は海の、狭い崖端を、蜈蚣《むかで》か何かのやうにのたくつて行く軽便鉄道である。それを考へると、彼は電車に乗らうとした足を、思はず踏み止めた。湯河原まで、何うしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなつてしまふ。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、いらいら[#「いらいら」に傍点]しさが自分を待つてゐるのだと思ふと、何うしても電車に乗る勇気がなかつた。彼は、少しも予期しなかつた困難にでも逢つたやうに
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