夫人は、口でこそ青年の死を悼んでゐるものゝ、その華やかな容子や、表情の何処にも、それらしい翳さへ見えなかつた。たゞ一寸した知己の死を、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己の死を、話してゐるのに過ぎなかつた。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子と云ふ名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだらうと思つたのは、自分の思ひ違ひかしら。夫人の容子や態度が、示してゐる通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。さう、疑つて来ると、信一郎は、青年の死際の囈語《うはごと》に過ぎなかつたかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかつた態度が気恥しくて堪らなくなつて来た。彼は、夫人に会へば、かう云はうあゝ云はうと思つてゐた言葉が、咽喉にからんでしまつて、たゞモヂ/\興奮するばかりだつた。
「妾《わたくし》、今日すつかり時間を間違へてゐましてね。気が付くと、三時過ぎでございませう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行つて、本当にきまりが悪うございましたわ。」
その癖、夫人はきまり
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