なかつた。三分経ち、五分経ち、十分経つた。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であつたやうに、悔いられた。
 その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚《マンテルピース》の上の姿見に、自分の顔が映つてゐた。彼が何気なく自分の顔を見詰めてゐた時だつた。ふと、サラ/\と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後《うしろ》の扉《ドア》が音もなく開かれた。信一郎が、周章《あわて》て立ち上がらうとした時だつた。正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然《えんぜん》たる微笑の会釈を投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」
 長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と狎々《なれ/\》しさに充ちてゐた。しかも、その声は、何と云ふ美しい響と魅力とを持つてゐただらう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまつた。
「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ず
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