の裡に、一分ばかり待つてゐた。その時、小さい靴の足音がしたかと思ふと扉《ドア》が静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。
「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思ひますが、御都合は如何で厶《ござ》いませうか。」
彼は、さう云ひながら、一枚の名刺を渡した。
「一寸お待ち下さいませ。」
少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠《りす》のやうに、すばしこく馳け上つた。
信一郎は少年の後を、ぢつと見送つてゐた。骰子《さい》は投げられたのだと云つたやうな、思ひ詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いてゐた。
忽ちピアノの音が、ぱつたりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知つたと云ふことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝《こら》してゐた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい微笑《わらひ》を浮べた少年は、トン/\と飛ぶやうに階段を馳け降りて来た。
「一体、何う云ふ御用で厶いませうか。一寸聞かしていた
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