には青い月光の下に、俄に迸り出でたる泉のやうに、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となつて、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のやうに、蠱惑的に彼の心を囚へた。
 彼の心に、鍵盤《キイ》の上を梭《をさ》のやうに馳けめぐつてゐる白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去つた刹那の白い輝かしい顔が浮んだ。
 彼は時計を返すなどと云ふことより、兎に角も、夫人に逢ひたかつた。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会ふことが出来さへすれば、その事|丈《だけ》でも、非常に大きな欣びであるやうに思つた。
 躊躇してゐた足を、踏み返した。思ひ切つて門を潜つた。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のやうに、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでゐる車寄せで、彼は一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう扉《ドア》の横に取付けてある呼鈴に触れてゐた。
 茲まで来ると、ピアノの音は、愈《いよ/\》間近く聞えた。その冴えた触鍵《タッチ》が、彼の心を強く囚へた。
 呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安
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