への青い芝生の中の道が、曲線をしてゐる為に車寄せの様子などは、見えなかつたが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒に而も荘重な感じを見る者に与へた。開け放した二階の窓にそよいでゐる青色の窓掩ひが、如何にも清々しく見えた。二階の縁側《ヴェランダ》に置いてある籐椅子には、燃ゆるやうな蒲団《クション》が敷いてあつて、此家の主人公が、美しい夫人であることを、示してゐるやうだ。
入らうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思ひ悩んだ。手紙で訊き合して見ようか、それでも事は足りるのだと思つたりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思はず踵《きびす》を廻《かへ》さうとした時だつた。噴泉の湧くやうに、突如として樹の間から洩れ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしつかと掴んだのである。
七
樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲《ノクチュルン》だつた。彼は、廻《かへ》さうとした踵《きびす》を、釘付けにされて、暫らくはその哀艶な響に、心を奪はれずにはゐられなかつた。嫋々たるピアノの音は、高く低く緩やかに劇しく、時には若葉の梢を馳け抜ける五月の風のやうに囁き、時
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