。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のやうな勢ひで、彼女達の方へ向つて来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判つた。狼狽してゐる美奈子達を目がけて激しい勢ひで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫つた。美奈子が、アツと思ふ間もなく、牡牛の鉄のやうな角は、母の脇腹を抉つてゐた。母の、恐ろしい呻り声が美奈子の魂を戦《をのゝ》かしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢は断《き》れた。が、不思議に呻き声のみは、尚続いてゐた。

        二

 悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子は夢《ゆめ》現《うつゝ》の間に聞き続けてゐた。
「うゝむ! うゝむ!」
 腸《はらわた》を断つやうな呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、醒めかゝるに連れてその呻き声は段々高くなつた。
「うゝむ! うゝむ!」
 彼女は、到頭寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたやうな悪寒を感じた。
「うゝむ! うゝむ!」
 ひきしぼるやうな悲鳴は、彼女の身辺からマザ/\と起つてゐるのであつた。
「お母様!」
 それは、悲鳴だつた。
前へ 次へ
全625ページ中606ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング