て下さい! 待つて下さい! そんなことを本当に兄が云つたですか。」
紳士は顔|丈《だ》けを振り向けた。
「文字|通《どほり》に、さう云はれたとは云ひません。が、それと同じことを私に云はれたのです。」
「何時! 何処で?」
青年は、可なり焦つて訊いた。
「お兄《あにい》さんが死なれる直ぐ前です。」
さう云つて、紳士は淋しい微笑を洩した。
「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云ふのですか。」
青年は、可なり緊張して訊いた。
「さうです。貴君《あなた》のお兄《あにい》さんの臨終に居合したたつた一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたつた一人の人間も私です。」
紳士は落着いて、静《しづか》に答へた。
「えゝつ! 兄の遺言を。一体兄は何と云つたのです。何と云つたのです。その遺言を貴君が、今まで遺族の者に、隠してゐるなんて!」
青年は、相手を詰問するやうに云つた。
「いや、決して隠してはゐません、現在貴君に、その遺言を伝へてゐるぢやありませんか。」
四
紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰ひ入つてしまつた。
「本当に、貴君は兄の臨終に居合した
前へ
次へ
全625ページ中593ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング