「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はかうしてはゐられないのです。」
 青年は、さう云ひ切ると、相手を振り払ふやうに、階段を馳け上らうとした。が、相手はまだ諦めなかつた。
「青木君! 一寸お待ちなさい。貴方は、お兄《あにい》さんからの言伝《ことづて》を聴かうとは思はないですか。さうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」
 さう云はれると、青年は遉《さすが》に足を止めずにはゐられなかつた。
「言伝《ことづて》! 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」
 青年は嘲るやうに、云ひ放つた。
「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云はずにはゐられなかつたのです。貴君は、今可なり危険な深淵の前に立つてゐる。私は貴君がムザ/\その中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄《あにい》さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはゐられないのです。」
 さう云ひながら、相手は青年と同じ階段のところまで上つて来た。
「危険な深淵! さうです。貴君のお兄《あにい》さんが、誤つて陥つた深淵へ貴君までが、同じやうに陥ち
前へ 次へ
全625ページ中591ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング