ら心ならずも、夫人に対する愛を抑へてゐた。
 突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去つた。彼は、兄に対する遠慮から、抑へてゐた心を、自由に夫人に向つて放つた。
 夫人は、それを待ち受けてゐたやうに、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまつた。
 彼は、夫人から、蜜のやうな甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛してゐて呉れることを、疑ふ余地は、少しもなかつた。
 彼は直截に夫人に結婚を求めた。
「妾《わたし》も、ぜひさうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考へさせて下さいよ。貴君《あなた》、箱根へ一緒に行つて下さらない。妾《わたし》、此の夏は、箱根で暮さうと思つてゐますのよ。箱根へ行つてから、ゆつくり考へてお答へしますわ。」
 夫人は、美しい微笑でさう云つた。
 箱根へ同行を誘つて呉れる! それは、もう九分までの承諾であると彼は思つた。
 箱根に於ける避暑生活は、彼に取つて地上の極楽である筈であつた。
 思ひきや、其処に地獄の口が開かれてゐようとは。
「裏切者め!」
 青年は、走りながら、思はず右の
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