信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、歴々《あり/\》と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢ひたくなつた。其処へ、彼のさうした決心を促すやうに、九段両国行きの電車が、軋《きし》つて来た。此電車に乗れば、麹町五番町迄は、一回の乗換さへなかつた。
六
電車が、赤坂見附から三宅坂通り、五番町に近づくに従つて、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢《ポーズ》を取つて、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めてゐるのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけてゐるのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢ひたがつてゐるのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢ひたがつてゐるのではないか。』と云ふ叱責に似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑はしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言|通《どほり》に、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であらうとあるまいと、そんな事は何の
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