つて呉れるでせう。御宅は、麹町の五番町です。」
 さう云ひ捨てると、その青年は身体を捷《すばしこ》く動かしながら、将に動き出さうとする電車に巧に飛び乗つてしまつた。
 信一郎は、一寸おいてきぼりを喰つたやうな、稍々《やゝ》不快な感情を持ちながら、暫らく其処に佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのやうであつたのが、恥しかつた。どんなに、あの女性の本名が知りたくてももつと上品な態度が取れたのにと思つた。
 が、さうした不愉快さが、段々消えて行つた後に、瑠璃子と云ふ女性の本体を掴み得た満足が其処にあつた。而も、瑠璃子と云ふ女性が、今も尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持つて来た時計の持主らしい。凡ての資格を備へてゐることが何よりも嬉しかつた。短剣を鏤めた白金《プラチナ》の時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピツタリと合ひすぎるほど、合つてゐた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取つて呉れるに違《ちがひ》ない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違《ちがひ》ない。さう思ふと、
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