問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさへすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、さう強く思ひ切らうとした。が、幾何《いくら》強く思ひ切らうとしても、白孔雀を見るやうな、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた若き夫人の姿は、彼が思ふまいとすればするほど、愈《いよ/\》鮮明に彼の眼底を去らうとはしなかつた。
 青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂つたお濠の堤《どて》に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広い通《とほり》が、午後の太陽の光の下に白く輝いてゐた。彼は、一寸した興奮を感じながらも、暫くは其処に立ち止まつた。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたない[#「はしたない」に傍点]やうにも思はれた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思つたりした。が、さうした順序を踏んで相手が、会はないと云へば、それ切りになつてしまふ。少しは不自然でも、直截に訪問した方が、却つて容易に会見し得るかも知れな
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