た。否馳け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるやうに。恐ろしい罪と恥とから逃げるやうに。彼女は、凡てを忘れて、若い牝鹿のやうに、逃げた。
夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走つて、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破《ぐわば》と投げ付けたまゝ、泣き伏した。
涙は、幾何《いくら》流れても尽きなかつた。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかつた。
凡ては失はれた。凡ては、彼女の心から奪はれた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持つてゐたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であつた母を。
春の花園のやうに、光と愛と美しさとに、充ちてゐた美奈子の心は、此の嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と悲哀の外は、何も残つてゐなかつた。
恋人から、邪魔物扱ひされてゐることが、悲しかつた。が、それと同じに、母が――あれほど、自分には優しく、清浄《しやうじやう》である母が、男に対して、娼婦のやうに、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかつた。自分の頼み切つた母が、夜そつと眼を覚して見ると、自分の傍には、ゐないで、有明の行燈を嘗めてゐるのを発見した古い
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